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甦れ玉縄城 玉縄城址のなかを探索 神奈川県教育委員会文化遺産チームの城址視察 平成28年5月13日(金)14:00〜16:00蹴鞠場の調査 月見堂脇の堀切 三角平場(矢射場)と30m下の七曲坂平場との立体遺構を確認 改めて諏訪壇の構造を確かめる [最新報告News5]里山ボランティア活動で歴史ミュウジアムに看板設置歴史の道 七曲坂下 東の入口看板 歴史の道 七曲坂上 西の入口看板 本丸跡の最高峰 諏訪壇の看板 戦国武家文化の一つ蹴鞠場の看板 大手門址から南西を望む眺望台にも設置 大手門址には玉縄城の案内看板 市民緑地(太鼓櫓址)周辺の地形案内 太鼓櫓跡から焔硝蔵を見下す 七曲坂東の植谷戸西公園に、玉縄城跡遺構の案内看板を設置し、市に寄贈 大手門址と諏訪壇周辺大手門址から城内へ嘗ての玉縄城の大手門は、現在は清泉女学院の裏門になっています。 元々は玉縄ふるさと館の模型にあるように大手門からの道は、土塁の真ん中にまっすぐに伸びた道でした。 開校当初は校門として活用されていましたがテニスコートを増設した際、埋め戻されて現在見られるような姿に なりました。 埋められる前は、門の礎石が二つ残っていて、そのうちの一つが玉縄ふるさと館にある円形の石だと言われています。 裏門の左手の家が建っているあたりは昔、空堀でした
<玉縄城址の遺構> 諏訪壇 玉縄城の象徴的な場所です。現在、植木にある諏訪神社は昔、この場所にありました。 諏訪神社のある高台ということで諏訪壇という呼び名がついています。 標高は約80メートル、本丸との高低差は、 20メートルです。全長60メートル、幅25〜30メートルもあり、土塁というよりも立派な曲輪(くるわ)です。 この辺りは地元では城山とも呼ばれています 諏訪壇東の堀の址 南の石段から諏訪壇へ登る途中、諏訪壇の南側の真下に窪地が見られます。 これは堀の址ですっかり埋まっていますが現地に立ちますと地面がへこんでいることが分かります。 崖側に土橋状の畝があり、その向こう側には下に向かって縦堀が掘られています。 土橋から下を見ますと縦堀の底に三角形の平場が見られます。 この三角形の平場は七曲坂を見降ろすためのものです。 けまり場 江戸時代の書物『新編相模風土記』に「諏訪壇その北に続きて蹴鞠場(麻里計婆)等の名あり」と書かれています。 諏訪壇の北東側に四角ばった平場があり、ここが「けまり場」と考えられます。玉縄の歴代城主が「けまり」をした場所です。 強力な軍団を率いる城主や姫君たちが一方では京都風のみやびな遊びを楽しんでいたのです。 (文武両道の玉縄北条氏の特長がよく現れていますね) 「けまり場」の東端には高さ2メートルほどの小規模の土塁が残っています。 城内で小規模の土塁がはっきり残っているのは今のところこの場所だけです。 下に降りる石段が造られる前は北側にスロープ状の道になっていました。 本来、土塁はもっと伸びていたはずです。
けまり場は本来は崖側以外の三方を堀で囲まれていました。 この東側の堀だけが原型を留めています。山の尾根を堀割った空堀のことを特に堀切と言います。 南側の崖から先は縦堀になっています。 この堀切を挟んでまりけばの東隣りにあるのが月見堂と呼ばれる小規模の曲輪です。 この辺は学校内周辺でも、最も原型をとどめた場所です。(月見堂は私有地のため中には入れません)
旧修道院の建物が建っているあたりが御花畠です。 御花畠は上杉謙信の春日山城や九州の平戸城などにも存在し、特に寛永年間の江戸城を描いたと言われている佐倉歴博所蔵の 「江戸図屏風」の中では、江戸城天守の右上に椿や鬼ゆり、紫陽花など季節の花を愛でる場所として描かれています。 (※大竹縄張り図資料を参照) 御花畠の北側の曲輪 名称は伝わっていませんが、城の北側を守る要になる曲輪です。 近年まで御花畠の建物が修道院として使っていたため学校の卒業生もほとんど入ったことがない場所です。 曲輪の下には三方を堀の役割をした腰曲輪が廻っています。かつてはさらに北側に尾根が続いていたのですが、 早雲台の住宅地を造成するために尾根を学校の際まで削り取っています。 西端には大小二つの堀切が残されています。西側も学校が建つ前は食い違いまで尾根が続いていました。 |
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