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玉縄城の再発見
鎌倉の城 玉縄城
玉縄城の再発見
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玉縄城域模型
玉縄城鳥瞰図
玉縄城の素晴らしさ
民のための城 小説「黎明に起つ」から
玉縄城は1512年、北条早雲によって築かれました。
会員の歴史小説家、伊東潤さんは北条早雲を主人公とする「黎明に起つ」のなかでこう書いています。
玉縄城である。―玉縄の地は、藤沢から神奈河に至る東海道(鎌倉街道下道)と、三浦半島に向う道、 さらに六浦湊へと続く道が交差する交通の結節点であり、武蔵国の扇谷勢と三浦半島の三浦勢の連携を断つ位置にあった 。さらに、東は柏尾川、南は境川、北は大面川に囲まれ、それを外堀と見立て、防御線を布くこともできる。
宗瑞(早雲)は、城というものに新たな可能性を見出していた。
これまでのように、武士たちが争う拠点としての城ではなく、危急の折は、地域の民が牛馬を引いて逃げ込めるようにしたものを、宗瑞は城と考えた。 ――城とは、大規模な救恤小屋なのだ。
宗瑞は軍事拠点としてだけではなく、地域の民の避難所として玉縄城を築くことを考えていた。
戦乱が絶えない関東では、城の利用範囲が拡大し、陣と呼ばれる一時的な駐屯地、籠城だけを目的とした山城、 交通を管制する関城等、様々な用途を持った城が急速に出現しつつあった。 宗瑞は、そうした概念の一つに、救恤小屋としての城を加えた。
後年、宗瑞の子孫たちは、この思想を受け継ぎ、小田原をはじめとした拠点城のいくつかに惣構え という概念を取り入れ、城の一部を、大規模な避難所兼救恤小屋として民に開放した・・・。 民を救恤する城、民のための城、という全くあたらしい早雲の考えによって築かれたのが玉縄城… この玉縄城の見方は小説家の創作ではありません。
当会のアカデミアにおける城郭史学会代表、西ヶ谷恭弘氏や小和田哲男氏、黒田基樹氏、 伊藤一美氏など当代の歴史家の最新研究による見解でもあります。 そして、この巨大な土塁と堀に囲まれ、数々の工夫がなされ、守りに強い玉縄城は一度も外敵に攻め落とされたことがない 、不敗の城でもありました。では、玉縄北条の戦歴を調べてみましょう。
玉縄城に刻まれた5度の戦歴
第1回は、永正15年(1518)、玉縄北条は三浦氏の援軍上杉修理大夫朝興の軍勢を、 玉縄城の北方に陣を組んでくいとめました。第2回は大永6年(1526)11月、房州の里見左馬頭義弘の軍勢を、 玉縄城の南、戸部川(柏尾川)畔でくいとめました。
第3回は永禄4年(1561)3月、上杉景虎の軍勢に包囲されたが、 頑強な玉縄城はついに陥ちなかったのです。第4回は永禄12年(1569)甲州武田勢によって、 おんべ山砦が陥されたが玉縄城本城は安泰でした。
第5回は天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに際し 、家康の軍勢に包囲されたが力づくでは陥ちなかったので、城主氏勝の叔父大応寺(龍寶寺) の了達和尚に降参を進めさせ、ようやく開城させたのです。
(清泉女学院出版「玉縄城跡」の記録による)
このように、力づくでは一度も陥ちることのなかった不敗の城、玉縄城は、1619年、徳川幕府の一国一城令で 廃城になるまで関東屈指の名城として100年余り存続したのです
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